「成長」という意識高い系ワードに敏感に反応してしまいます
読みました。だよねー、って思いました。
まあ、そう言いながらも自分が明確な目的意識を持っているかどうかと聞かれたら、かなり怪しいのですが。
僕にとって「成長」という言葉は、かなりおしりムズムズ、お顔真っ赤になっちゃうワードです。今就職活動とかしていることも関係しているのだとは思いますが。
周りの学生さんたちが「成長できますか??」なんて質問しているのを聞くと、なぜかこっちが恥ずかしくなってしまいます。
しかしなぜこうも「成長」という言葉に敏感に反応してしまうのでしょう?
本来、成長した方がいろいろと良いことありそうですよね。今までできなかったことが出来るようになったり、もしかしたらこれから新しく挑戦することに有利な条件で臨めるかもしれない。だったら素直に成長しとけばいいじゃん!となるわけです。
この素朴な疑問についての一つの理由が、冒頭に挙げた脱社畜ブログさんの見解です。自分たちは何のために成長するのか、ということをちょっとは考えておかないと、視野の狭い成長至上主義人間になってしまいます。
もちろん、成長することそれ自体を目的とする人がいても、それを否定するつもりはありません。ただし、それに自覚的な人であれば、ですけど。なんらかの能力が向上することに喜びを感じるのは、誰にでもあてはまることですからね。
この理由の他にもう一つ、「成長」に素直になれない理由があるように思います。
それは、「成長」を掲げる人ほど、「立派だなー」と思える人が少ないことです。立派というのもあいまいな表現ですが、僕が思うに、①人格的条件、②能力・スキル的条件、の双方を満たしている人が立派です。
①については、謙虚さという点が特に重要だと考えています。「成長」ばかり考えている人の中には、向上心あふれる自分に酔っていたり、自分と違う価値観(成長とかよりまったりしたいよね、みたいな)を持つ人を見下してしまう人も少なくはないように思われます。こういう人を見るたびに、どうしても器の小ささのようなものを感じてしまうのです。完全に上から目線で恐縮ですが……。
②については、言わずもがな、といったところでしょう。事務処理能力、発想力、リーダーシップ等の、持っていることが望ましいとされやすい能力の話です。これらの力が明らかに低い人が「成長」を声高に叫んでも、どうにもしっくりと来ないのです。能力が足りていないから成長したいのだ、という理屈は分かりますが、その理屈で周りを説得しようとしても、なかなか難しいですよね。そして、悲しいことに「成長」を叫ぶ人の多くは、現状の能力で周囲の尊敬を集められていない気がします。いわゆる意識高い系で終わってしまっているのです。
そして、「成長」一直線の人たちに言いたくなるのです。
「成長」以外のことも考えられるようになろうよ、それも成長だよ、と。
このことが、僕が「成長」という言葉に気後れしてしまう理由なんだと思います。
ここまでいろいろ書いておいて難ですが、「成長」って何なんでしょう?
プラス成長とかマイナス成長って言葉もあるし。人生って難しい……。