ざしわらの家

日々思ったことを書き連ねる雑記ブログ。元ニート。

溝を超えるために必要なもの ~「うちらの世界」から移動することは出来るのか~

ちょっと遅れてしまいましたが、最近話題になっている「うちら」の世界。
特に流行ったエントリはこんなところでしょうか?

「うちら」の世界 - 24時間残念営業
私のいる世界 - ひきこもり女子いろいろえっち
低学歴と高学歴の世界の溝

世の中には、いろいろな人がいます。アイス用の冷蔵庫に入っちゃうような人もたくさんいることでしょう。
他方、教養あって金もあって……みたいな人もたくさんいます。そして、お互いにまるで違う世界を生きているようだ、というのもまさにその通りだと思います。



こういったいわゆる「住む世界」的なものは、個人の努力だけで移動できるものでしょうか?
私は、このような移動はかなり難しいものであると感じています。

そもそも人は、生まれた時点でスタートラインが違います。人間は遺伝と環境によって形作られると言いますが、遺伝、環境共に、生まれた時点で殆ど決定されます。
遺伝的な要因はどうしようもないことですし、環境的な要因にしたって、誰が親で、どこで生まれたのかといったことによって決まってしまいます。

環境的な要因については、特に親の存在が大きいと思います。
親がお金持ちであれば、塾に通うことだって容易でしょうし、同じように親が本好きであれば、小さなころから本に囲まれた環境で生活することができます。
日常で当たり前のように英語を使っている親の元に生まれたら、英語を話すのは当然と思う可能性が高まると思われますし、進学の選択肢にしたって海外の大学を考えやすくなることでしょう。

個人の努力によって何とかなるという考えもありますが、そうなる場合はあるにしても、あくまでも例外的な話だと思いますし、そもそも努力するということの重要性だって、周囲の影響を受けてはぐくまれる場合が多いのではないでしょうか。そう考えると、努力すれば、ということ自体、環境によっては難しくなる可能性があります。



でもこれは、なんだかすごく悲しいことのように思えます。
生まれによって人生の選択肢が狭まってしまう世の中を、僕は良いとは思いません。出来ることなら、生まれの違いに関係なく、できるだけ多くの人が多様な選択肢を見つけ、多くの中から自分が採りたい選択肢を採れるような世の中の方が良いと考えます。

しかし現状では、先に書いたように、生まれによって遺伝・環境共に殆ど規定されてしまいます。
そんな状況を考えると、それらのハンデともいえるものを乗り越えるためのチャンスが、少なくとも有力な手段の一つが教育だと思います。



日本人であれば、誰もが学校に行くことができます。
そこでは勉強するように言われ、半強制的に生徒は勉強させられます。現状、学歴社会と言われる日本では、勉強することで誰もが道を切り拓くことができます。直接的には、こういった勉強によって生徒の選択肢を増やせる訳です。

それに、学校では色々な文化的なものも得ることができます。
家によっては本がないという家庭もあるでしょうが(というか僕の家にはなかった)、学校には図書室があります。夏休みになると宿題として読書感想文が課される場合が多いと思いますが、そうすると必然的に本を読むことが必要になります。そのときは苦痛かもしれませんが、こういった経験がきっかけとなって、後に読書への抵抗感が少なくなる人も出てくることでしょう。
僕個人の話になりますが、こういった読書経験がなければ、読解力などは十分に身につかず、大学に行けたかどうかだって怪しいものです。今とは全く違った人生になっていたことは間違いないと思います。


また、部活動に入ればスポーツに触れることができますし、修学旅行に行けば様々な文化財を見ることができます。こうした諸経験を通じて、子どもの視野を広げることができると思うのです。

加えて、学校では親以外の大人と会うことができます。学校の先生です。
学校の先生はあまり優秀でないと馬鹿にされることも多いですが、私はそうは思いません。
確かに、学校の先生よりも知的に優れた人は世の中にたくさんいます。しかし、社会全体でみると、学校の先生はかなり知的に優れた部類に入る人たちだと思うのです。特に最近の若い先生は、かなりの倍率である教員採用試験を突破して採用されています。
また、学校の先生は大学を卒業しています。大学に行っていない親を持つ子供にとっては、大学という世界を見てきた大人と接する機会でもあります。



他方、家庭環境などに恵まれた人は、学校で与えられる資源のほかにもたくさんのものを得ていることでしょう。
塾に通えば、学校以上に分かりやすい授業が提供されているといいます。モチベーションの高い仲間を得ることも可能でしょう。

家庭環境の差が、世の中にある格差をますます拡大させていると言われて久しい今日この頃。僕もそれは実感してきました。
やっぱり生まれや育ちが良い奴は、なんだかんだ言って得することが多いと思いましたし、貧しい家庭に生まれると、経済力はもちろんのこと、意識の次元でも様々なデメリットを負うと感じます。

教育によって人の人生に大きな影響を及ぼすことは難しいのかもしれない、と思ってしまいます。
でもその一方で、完全に意味がないのかと聞かれたら、そんなことはないと思う、と僕は答えます。



最近、人生は競馬に似ているなぁ、と思います。
競馬の世界では、血統によって馬の実力は9割方決まっているそうです。つまり、騎手がレースの結果に及ぼす影響は1割程度ということになります。

教育も多分、同じようなものだと思います。
人間だって、生まれによって、その人の能力やらなんやらは9割方決まってしまいます。教育が子どもの人生に及ぼすことができる影響なんて、ひょっとしたら1割程度、もしくはもっと小さなものでしかないのかもしれません。


教育によって「うちらの世界」的な溝を完全に埋めることは出来ないでしょう。
でも、教育が頑張ることによって、溝を跳び越えられる人が出てくるかもしれません。
競馬だって、馬の実力が9割と言いつつ、名騎手は存在しますし、騎手の手腕によってレースの結果が変わることは大いにあり得ることです。

そうであるなら、教育によって溝を完全に埋めることができないにしても、やっぱり教育って大切だと思うし、これから益々頑張らないといけない分野だと思います。